石田秀実『中国医学思想史』を読む 4

葛応雷の名は、もう一か所出てくる。

同じ270頁。

 

「四子」もしくは「四大家」と呼ばれるこの四人は、最初は劉完素・張従政の去邪の医学と張元素・李杲の補益医学という組み合わせで語られることが多かった(葛応雷・呂復など)(3)が、やがて従政を除いて張仲景を加え、さらに元の朱震亨を併せるという組み合わせが主流となった。

 

注(3)をみると、

 

(3)劉伯驥『中国医学史』(華岡出版部、一九七四)三八四ページ。

 

とある。

そこで、劉伯驥『中国医学史』を引っ張り出して、384ページを開く。

下冊の第七章・金元医学、第七節・四子学派のところだ。

 

然而所謂四子云者、元人葛応雷以劉守真張子和張潔古李東垣並列、謂「劉守真張子和輩、値金人強盛、民悍気剛、故多用宣洩之法。及其衰也、兵革之余、飢饉相仍、民労志困、故張潔古李明之輩、多加補益之功。」 呂元膺亦宗之。

 

なるほど。

たしかに、この文章にもとづいていることは分かるが、ここに注はなく、「」内の文章の出典も示されていない。

しかしこれも実は、『金華黄先生文集』の葛応雷の墓誌銘が出典なのだ。

前回引いた部分の続き。

 

公所著書、大旨以為医当視時盛衰。

劉守真張子和輩、値金人強盛、民悍気剛、故多用宣洩之法。

及其衰也、兵革之余、飢饉相仍、民労志困、故張潔古李明之輩、多加補益之功。

至若宋之季年、医者大抵務守護元気而不識攻伐之機、能養病而不能治病、失在不知通其変也。

書凡二十巻、名曰医学会同。

摘古語扁其斎曰恒、蓋用術貴於通変、立志則不可無恒也。

 

葛応雷の著書、『医学会同』の内容を紹介している。

その要旨は、「医は当に時の盛衰を視るべし」というもの。

劉守真や張子和は、ちょうど金人が強く盛んであった時代に当っており、民衆の気質も力強く猛々しかった。

だから宣洩の法を多用したのである。

しかし金もやがて衰え、戦後に飢饉が頻繁に起こり、民衆は疲れはてていた。

それで張潔古や李明之は、補益の功を加えることが多かったのである。

宋も終わり頃になると、医者はたいてい、元気を守ることに力を尽して、病を攻めるタイミングを知らず、病気を養うばかりで、病気を治すことができなかった。

その過失は、変化の理に通じるということを知らないことにある。

葛応雷の著書は全二十巻、『医学会同』という。

古語から選び取り、葛応雷の書斎には、「恒」という扁額が掛けられていた。

そもそも術を用いる場合は変化の理に通ずることを貴ぶが、志を立てるには「恒」はなくてはならないからである。・・・

 

劉伯驥の言うように、この四人を「並列」しているのは確かだが、墓誌銘の中では、「四子」あるいは「四大家」と称されているわけではない。

 

たとえば、丁光迪『金元医学評析』(人民衛生出版社)は、このような見方は採らない。

 丁光迪は、宋濂の朱丹溪『格致余論』題辞が、「金元四大家」の最も早い見解だという(30頁)。

 

「金之以善医名、凡三家、曰劉守真、曰張子和、曰李明之」

とはじまる宋濂の題辞は、この三家の説を受け継いだ羅太無に学んだ朱丹溪の『格致余論』について、

「君之此書、其有功於生民者甚大、宜与三家所著並伝於世」

という。

 

宋濂は、朱丹溪『格致余論』は、金の名医である三家(劉守真、張子和、李明之)の著書に比肩しうるものだと言う。

 

丁光迪はこれをもって、宋濂は、金元の名医は劉・張・李・朱の四人だといっていることになるわけで、だからこれが「金元四大家」の最も早い見解だというのである。

 

では、劉伯驥の書に「呂元膺亦宗之」といい、石田秀実もまた(葛応雷・呂復)と記す、呂復(字、元膺)のほうはどうだろうか。