石田秀実『中国医学思想史』を読む 5

呂復については、『明史』に伝がある。

 

呂復、字は元膺、鄞の人。

幼い頃に父親を亡くして貧乏だったが、師について経書を学んだ。

その後、母が病気になり、医者を求めたところ、衢の人である鄭礼之という名医に遭遇した。

やがて謹んで鄭礼之に師事することとなり、古先の禁方や色脈薬論などの書物を得た。

これらを試してみると、すぐに効き目があらわれた。

そこで、古今の医書をすべて買い求め、日夜研究し、医業を行うと、その効果はまるで神わざのようであった。

『内経素問』『霊枢』『本草』『難経』『傷寒論』『脈経』『脈訣』『病原論』『太始天元玉冊元誥』『六微旨』『五常政』『玄珠密語』『中蔵経』『聖済経』などの書物についてみな議論し、前代までの名医である、扁鵲・倉公・華佗・張仲景から張子和・李東垣に至るまで、みな評定した。・・・

 

何時希『中国歴代医家伝録』によれば、この呂復による名医の評定は後世、「呂復論医」と呼ばれ、名医16人について、評価が下されている。

それは、戴良『九霊山房集』巻27に収める呂復の伝記、「滄洲翁伝」の中にある。

呂復の伝記は、この戴良のものより詳しいものはない、と方春陽もいう。

その「滄洲翁伝」にある呂復による16人の名医の評価がこちら。

 

扁鵲、医如秦鑑燭物、妍蚩不穏、又如弈秋遇敵、著著可法、観者不能測其神機。

倉公、医如輪扁斵輪、得心応手、自不能以巧思語人。

張長沙、如湯武之師、無非王道、其攻守奇正、不以敵之大小、皆可制勝。

華元化、医如庖丁解牛、揮刀而肯綮無礙、其造詣自当有神、雖欲師之而不可得。

孫思邈、医如康成註書、詳於制度訓誥、其自得之妙、未易以示人、味其膏腴、可以無飢矣。

龐安常、医能啓扁鵲之所秘、法元化之可法、使天假其年、其所就当不在古人下。

銭仲陽、医如李靖用兵、度越縦舎、卒与法会、其始以顱顖方著名於時、蓋猶扁鵲之因時所重而為変爾。

陳無擇、医如老吏断桉、深於鞫讞、未免移情就法、自当其任則有余、使之代治則繁劇。

許叔微、医如顧愷寫神、神気有余、特不出形似之外、可模而不可及。

張易水、医如濂溪之図、太極分陰分陽、而包括理気、其要以古方新病、自為家法、或者失察、剛欲指図為極、則近乎画蛇添足矣。

劉河間、医如橐駞種樹、所在全活、但假冰雪以為春、利於松栢而不利於蒲柳。

張子和、医如老将対敵、或陳兵背水、或済河焚舟、置之死地而後生、不善效之、非潰則北矣、其六門三法、蓋長沙之緒余也。

李東垣、医如獅弦新緪、一鼓而竽籟并熄、膠柱和之、七均由是而不諧矣、無他希声之妙、非開指所能知也。

厳子礼、医如欧陽詢寫字、善守法度而不尚飄逸、学者易於摹倣、終乏漢晋風度。

張公度、医専法仲景、如簡斎賦詩、毎有少陵気韻。

王徳膚、医如虞人張羅、広絡原野、而脱兎殊多、詭遇獲禽、無足算者。

 

典故、テンコ盛りですね。

これはのちに『古今図書集成・医部全録』巻502に、明・呂復『医門群経辨論』古方論として収載され、段逸山主編『医古文』(人民衛生出版社)には、詳しい注解と現代語訳が附されています。

なので、読みたい方は、『医古文』を参照されるとよいです。

 

『医古文』のテクストでは、これを四つの段落に分け、

第一段落を「先秦両漢時期の四人の名医」(扁鵲・倉公・張仲景・華佗

第二段落を「唐宋時期の五人の医家」(孫思邈・龐安時・銭乙・陳言・許叔微)

第三段落を「金元時期の四人の大家」(張元素・劉完素・張従政・李東垣)

第四段落を「南宋の三人の医者」(厳用和・張騤・王碩)

と、解説している。

 

劉伯驥は、この呂復が論じた十六人の医家のうち、金元時期のチョイスが葛応雷のそれと一致していたために、「呂元膺亦宗之」と記したのだろう。

そして石田秀実もまた、これを踏襲した。

 

しかし、葛応雷の『医学会同』が四人を並列しているというのなら、こちらは十六人を並列している。

この中の一部を取り出して、四大家説のはしりというのも、なんだか妙な感じがしないでもない。

ここでも、「四子」とも「四大家」とも言っていないのだし、まして各家を折衷して用いよと言ってるわけでもない。(暗にそう言っているのかもしれないが)

 

ただ、張潔古、劉守真、張子和、李明之という組み合わせは、王褘『青巌叢録』にも、

「金代之有中原也、張潔古、劉守真、張子和、李明之四人者作、医道於是乎中興」

とあるわけで、ひとつの見解ではあります。

 

ちなみに陶宗儀『南村輟耕録』巻24・歴代医師・金には、

「成無己、何公務、劉守真、侯徳和、張子和、馬守素、楊従政、李道源、張元素、袁景安」

の十名を挙げており、劉雲軍氏はこれをうけて、劉完素を「金代十大名医のひとり」と呼んでいましたね。(劉雲軍「従名医到神医:保定地区劉守真伝説」)

 

いろんな見方があるものです。

 

 

結論:「四子」「四大家」説のはしりに、葛応雷や呂復の言説を位置づけるのは、劉伯驥『中国医学史』の見解であって、石田秀実はこれを踏襲しているが、それがすべてではない。

石田秀実『中国医学思想史』を読む 4

葛応雷の名は、もう一か所出てくる。

同じ270頁。

 

「四子」もしくは「四大家」と呼ばれるこの四人は、最初は劉完素・張従政の去邪の医学と張元素・李杲の補益医学という組み合わせで語られることが多かった(葛応雷・呂復など)(3)が、やがて従政を除いて張仲景を加え、さらに元の朱震亨を併せるという組み合わせが主流となった。

 

注(3)をみると、

 

(3)劉伯驥『中国医学史』(華岡出版部、一九七四)三八四ページ。

 

とある。

そこで、劉伯驥『中国医学史』を引っ張り出して、384ページを開く。

下冊の第七章・金元医学、第七節・四子学派のところだ。

 

然而所謂四子云者、元人葛応雷以劉守真張子和張潔古李東垣並列、謂「劉守真張子和輩、値金人強盛、民悍気剛、故多用宣洩之法。及其衰也、兵革之余、飢饉相仍、民労志困、故張潔古李明之輩、多加補益之功。」 呂元膺亦宗之。

 

なるほど。

たしかに、この文章にもとづいていることは分かるが、ここに注はなく、「」内の文章の出典も示されていない。

しかしこれも実は、『金華黄先生文集』の葛応雷の墓誌銘が出典なのだ。

前回引いた部分の続き。

 

公所著書、大旨以為医当視時盛衰。

劉守真張子和輩、値金人強盛、民悍気剛、故多用宣洩之法。

及其衰也、兵革之余、飢饉相仍、民労志困、故張潔古李明之輩、多加補益之功。

至若宋之季年、医者大抵務守護元気而不識攻伐之機、能養病而不能治病、失在不知通其変也。

書凡二十巻、名曰医学会同。

摘古語扁其斎曰恒、蓋用術貴於通変、立志則不可無恒也。

 

葛応雷の著書、『医学会同』の内容を紹介している。

その要旨は、「医は当に時の盛衰を視るべし」というもの。

劉守真や張子和は、ちょうど金人が強く盛んであった時代に当っており、民衆の気質も力強く猛々しかった。

だから宣洩の法を多用したのである。

しかし金もやがて衰え、戦後に飢饉が頻繁に起こり、民衆は疲れはてていた。

それで張潔古や李明之は、補益の功を加えることが多かったのである。

宋も終わり頃になると、医者はたいてい、元気を守ることに力を尽して、病を攻めるタイミングを知らず、病気を養うばかりで、病気を治すことができなかった。

その過失は、変化の理に通じるということを知らないことにある。

葛応雷の著書は全二十巻、『医学会同』という。

古語から選び取り、葛応雷の書斎には、「恒」という扁額が掛けられていた。

そもそも術を用いる場合は変化の理に通ずることを貴ぶが、志を立てるには「恒」はなくてはならないからである。・・・

 

劉伯驥の言うように、この四人を「並列」しているのは確かだが、墓誌銘の中では、「四子」あるいは「四大家」と称されているわけではない。

 

たとえば、丁光迪『金元医学評析』(人民衛生出版社)は、このような見方は採らない。

 丁光迪は、宋濂の朱丹溪『格致余論』題辞が、「金元四大家」の最も早い見解だという(30頁)。

 

「金之以善医名、凡三家、曰劉守真、曰張子和、曰李明之」

とはじまる宋濂の題辞は、この三家の説を受け継いだ羅太無に学んだ朱丹溪の『格致余論』について、

「君之此書、其有功於生民者甚大、宜与三家所著並伝於世」

という。

 

宋濂は、朱丹溪『格致余論』は、金の名医である三家(劉守真、張子和、李明之)の著書に比肩しうるものだと言う。

 

丁光迪はこれをもって、宋濂は、金元の名医は劉・張・李・朱の四人だといっていることになるわけで、だからこれが「金元四大家」の最も早い見解だというのである。

 

では、劉伯驥の書に「呂元膺亦宗之」といい、石田秀実もまた(葛応雷・呂復)と記す、呂復(字、元膺)のほうはどうだろうか。

 

 

石田秀実『中国医学思想史』を読む 3

第六章  新理論の整理統合

1 新儒教の影響

新理論の整理・統合と「四大家」意識の変遷

 

「劉完素・張元素の説にもとづいて『医学会同』(元・葛応雷撰。佚)といった書が著されるところに、この時代の雰囲気がうかがわれる(1)。」(270頁)

 

そこで、注(1)をみる。

 

(1)郭靄春『中国分省医籍考』上(天津科学技術出版社、一九八四)六〇一ページ参照。

 

と、ある。

そこで『中国分省医籍考』上冊を引っ張り出して、601ページを開く。

 

《医学会同》二十巻  元  葛応雷

 

とあり、正徳『姑蘇志』を引いて、

 

「時按察判官李某、中州名医也、因診父疾、復咨于応雷。聞其答、父子相顧駭愕曰:南方亦有此人耶。乃尽出所蔵劉守真、張潔古書、与之討論、無不吻合。而劉、張之学行于江南者、自此始。」

 

というエピソードを引く。

石田秀実は、この記述にもとづいて、上記のように語ったようだ。

 

ところで、丹波元胤『医籍考』の『医学会同』の項をみると、これと同じエピソードを、「李濂葛応雷補伝曰」として、引いている。

若干、字句に異同があるので、煩を厭わず引いてみよう。

 

「時按察判官李某、中州名医也。因診父病、復咨於応雷。聞其答論、父子相顧駭愕曰、南方亦有此人耶。乃尽出所蔵劉守真、張潔古書、与之討論、無不吻合。而劉張之学、行於江南、実自是始。」

 

李濂とは、『医史』を著した李濂のことだろう。

そこで、兪慎初審定『李濂医史』(廈門大学出版社)をみると、『医籍考』に引くのと同文である。

 

さらに言えば、このエピソードは、元の『金華黄先生文集』に載る葛応雷の墓誌銘に由来する。

 

成全郎江浙官医提起挙葛公墓誌

「浙西提刑按察判官李公某、中州名医也。嘗自診視其父疾、復以咨決於公。聞公言、父子相顧駭愕曰、南方何以有此耶。則尽出所蔵劉守真、張潔古之書、与之討論、所見無不吻合。江南言、劉張之学、自公始。」

 

大同小異といえばそれまでだが、葛応雷について引くのなら、『金華黄先生文集』に拠るのが妥当だろう。

 

方春陽編著『中国歴代名医碑伝集』(人民衛生出版社 2009)も、葛応雷の項で、『金華黄先生文集』のこの墓誌銘を筆頭に引く。

 

ただ、この墓誌銘は、従来あまり注目されてこなかったようだ。

 方春陽は、葛応雷の項の按語にいう。

 

「近世に撰述された『中国医学史』はみな、劉完素・張元素の学の南伝のキーパーソンを羅知悌とするが、実際の授受のルートは、決して一つではない。葛応雷もまた重要人物であり、上記の墓誌銘表や伝紀をみれば、十分に問題を説明できよう。・・・ただ羅知悌は朱震亨に伝え、大いに発揚して天下に名を知られたが、葛応雷は子孫に伝えて、わずかに代々その医業を守り、呉中にその名をとどめただけであった。しかしその学術思想の淵源はもとより同じである。惜しむらくは『医学会同』は亡佚しており、詳しくその内容を考察することがまだできていない。」

 

もちろん石田秀実は劉張の学の南伝の話をしているわけではなく、元から明清にかけて行われた、「それぞれの医家の長所を採って折衷的に統合使用して」いく時代風潮の例の一つとして、葛応雷『医学会同』を挙げているのだが。

 

結論:

正徳『姑蘇志』、李濂『医史』などに引く葛応雷のエピソードは、『医籍考』や『中国分省医籍考』などに引かれているが、その出典は、『金華黄先生文集』に収める葛応雷の墓誌銘であった。

 

石田秀実『中国医学思想史』を読む 1

石田秀実『中国医学思想史』東京大学出版会

第四章 古典理論の再編と展開

5 西方医学の流入と信仰治療

華佗の伝説と外科医学

 

「孤立例のように思われがちな開腹手術も、戦傷者の救急法として他の医書に記されている(『諸病源候論』巻三十九)。(195頁)

 

そこで、『諸病源候論』巻三十九を開く。

巻三十九 婦人雑病三

月水不利無子候

月水不通無子候

子蔵冷無子候

・・・

???

どうもちがう。

 

戦傷者、開腹手術をキーワードに探してみると、どうも巻三十六・金瘡諸病・金瘡腸断候が、それらしい。

 

巻三十六 金瘡諸病

金瘡諸病

金瘡腸断候

夫金瘡腸断者、視病深浅、各有死生。

腸一頭見者、不可連也。

若腹痛短気、不得飲食者、大腸一日半死、小腸三日死。

腸両頭見者、可速続之。

先以針縷如法、連続断腸、便取雞血塗其際、勿令気泄、即推内之。

腸但出不断者、当作大麦粥、取其汁、持洗腸、以水漬之、内、当作研米粥飲之。

二十余日、稍作強糜食之。

百日後、乃可進飯耳。

飽食者、令人腸痛決漏。

常服銭屑散。

 

しかしこれは、開腹手術というより、刀傷で、すでに腸が出てしまっているものに対する処置だよな・・・

 

と思いつつ、傅維康主編『中国医学の歴史』(東洋学術出版社)をみると、やはりこの部分が「腸吻合術」として紹介されている。

 

「いっぽう、外科手術も前人より継承された方法を発展させ、臨床に応用されていた。例えば、『諸病源候論』の「金瘡腸断候」に、「腹サン(大網ー胃の腸間膜の一部)摘出手術においては、まず糸で血管を結紮しその後に切除すべきことが記されている。また、「腸吻合術」については、「腸の二頭見ゆるは、これを連続すべし、先に鍼縷(鍼と糸)を以って法の如くし断腸を連続し、便ち鶏血を取りて其の際に塗る」との記載がある。これらの内容は、当時の臨床医学が、腹部外科手術について、すでにかなりの経験を有していたことを示している。」(269頁)

 

結論➀

中国医学思想史』195頁に、(『諸病源候論』巻三十九)とあるのは、正しくは巻三十六であった。

 

結論②

それは「開腹手術」というより、「腸吻合術」であった。

 

石田秀実『中国医学思想史』を読む 2

 

石田秀実『中国医学思想史』196頁

「なお、この時代の外科医学を伝える書としては、『諸病源候論』や後述の大部の方書群のほか、斉の永元元年(499)に編まれた龔慶宣の『劉涓子鬼遺方』が重要である。癰疽を中心として打撲・刀傷・火傷から皮膚病にいたる多様な外科疾患の治療法を記している。水銀製剤を皮膚病の治療や排膿に使用したり、砭石や手術用の鍼による切除術に際しての加熱消毒など、世界外科史上からも注目すべき記述が多い。」

 

そこで、『劉涓子鬼遺方』を見てみる。

「水銀製剤」や「鍼の加熱消毒」にあたる記載を、確認してみたい。

 

「水銀製剤」については、『劉涓子鬼遺方』巻五に、「水銀膏方」があった。

 

「治病疥癬、悪瘡、散熱。水銀膏方。

水銀  礬石  蛇床子  黄連  以上各一両。

右四物、両度篩い、臘月の猪脂七合を以て和し、并びに水銀もて撹し、調えしめ、打つこと数万過、銀を見ざれば膏成る。瘡に傅く。若し膏少なければ、益ます取る。并びに小児の頭瘡に良し。(龔慶宣、蘆茹一両を加う)」

 

『高等中医院校教学参考叢書・中医外科学』では、『劉涓子鬼遺方』の水銀膏による皮膚病治療は、他国よりも600年早いと記している。

 

もちろん水銀そのものは『神農本草経』に「治疥瘙、痂瘍、白禿、殺皮膚中蝨…」などとあり、『中国医学通史・古代巻』76頁で、馬王堆出土『五十二病方』について、「とくに瘡瘍や疥癬で雄黄や礬石(砒素剤)、水銀(汞剤)を使用しているのは、世界に先駆けた記載である。」というように、『五十二病方』にも記載がある。

 

石田秀実『中国医学思想史』55頁にも、『五十二病方』について、「こうした薬物の量、金・水銀などの貴重さ、時には犬や鶏をまるごとつぶしてしまうような使い方から考えれば、この書の処方を使うことができた階層は、ごく限られていたに違いない。」とあって、『五十二病方』に水銀が使われていたことにも触れている。

 

だから、『劉涓子鬼遺方』において「注目すべき記述」というのは、水銀の使用そのものというより、水銀「製剤」として、固定化された水銀処方ができていた、ということなのだろう。

 

「鍼の加熱消毒」については、『劉涓子治癰疽神仙遺論』の「針烙宜不宜」がそれにあたりそうだ。

 

人民衛生出版社、中医古籍整理叢書の『劉涓子鬼遺方』には、末尾に附録として、佚文と『劉涓子治癰疽神仙遺論』を載せている。

 

『劉涓子治癰疽神仙遺論』は、『劉涓子鬼遺方』の別本とみなされている。

馬継興『中医文献学』によれば、唐代には『劉涓子鬼遺方』の「方」を「論」に改めた『劉涓子鬼遺論』という書名がみられ、宋代になると「鬼」を「神仙」に改めた『劉涓子神仙遺論』という書名がみられるようになるとのこと。

 

その「針烙宜不宜」には、銅針や鉄針を真赤になるまで火で炙って、癰疽を刺して膿を出す方法が書いてある。

今でいう焼針や火針、内経にいう燔針にあたるものですな。

 

中国医学通史・古代巻』179頁には、

「焼烙法や火針は、手術に使う刀針を火で焼いてから膿腫を刺し破り切開するものだが、このような技術は、器具の消毒によって二次感染を防ぐとともに、傷口を焼烙することで止血する目的もある。」という。

 

ところで富士川游『日本医学史 決定版』第五章・鎌倉時代の医学・外科の項に、

「外科の治術が、内科の治術に比して、殆ど選ぶところなかりしは、平安朝の時代におけると異なるところなし。但し土佐光長の奇疾草子に載するところを見るに、針を烙きて背の腫物を療するの図あり。」

という。

たぶんこれかな。

 

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『劉涓子治癰疽神仙遺論』では、麻油燈で焼く、とあるけど、この図を見ると、炭火で焼いてるようだ。