石田秀実『中国医学思想史』を読む 3
第六章 新理論の整理統合
1 新儒教の影響
新理論の整理・統合と「四大家」意識の変遷
「劉完素・張元素の説にもとづいて『医学会同』(元・葛応雷撰。佚)といった書が著されるところに、この時代の雰囲気がうかがわれる(1)。」(270頁)
そこで、注(1)をみる。
(1)郭靄春『中国分省医籍考』上(天津科学技術出版社、一九八四)六〇一ページ参照。
と、ある。
そこで『中国分省医籍考』上冊を引っ張り出して、601ページを開く。
《医学会同》二十巻 元 葛応雷
とあり、正徳『姑蘇志』を引いて、
「時按察判官李某、中州名医也、因診父疾、復咨于応雷。聞其答、父子相顧駭愕曰:南方亦有此人耶。乃尽出所蔵劉守真、張潔古書、与之討論、無不吻合。而劉、張之学行于江南者、自此始。」
というエピソードを引く。
石田秀実は、この記述にもとづいて、上記のように語ったようだ。
ところで、丹波元胤『医籍考』の『医学会同』の項をみると、これと同じエピソードを、「李濂葛応雷補伝曰」として、引いている。
若干、字句に異同があるので、煩を厭わず引いてみよう。
「時按察判官李某、中州名医也。因診父病、復咨於応雷。聞其答論、父子相顧駭愕曰、南方亦有此人耶。乃尽出所蔵劉守真、張潔古書、与之討論、無不吻合。而劉張之学、行於江南、実自是始。」
李濂とは、『医史』を著した李濂のことだろう。
そこで、兪慎初審定『李濂医史』(廈門大学出版社)をみると、『医籍考』に引くのと同文である。
さらに言えば、このエピソードは、元の『金華黄先生文集』に載る葛応雷の墓誌銘に由来する。
成全郎江浙官医提起挙葛公墓誌銘
「浙西提刑按察判官李公某、中州名医也。嘗自診視其父疾、復以咨決於公。聞公言、父子相顧駭愕曰、南方何以有此耶。則尽出所蔵劉守真、張潔古之書、与之討論、所見無不吻合。江南言、劉張之学、自公始。」
大同小異といえばそれまでだが、葛応雷について引くのなら、『金華黄先生文集』に拠るのが妥当だろう。
方春陽編著『中国歴代名医碑伝集』(人民衛生出版社 2009)も、葛応雷の項で、『金華黄先生文集』のこの墓誌銘を筆頭に引く。
ただ、この墓誌銘は、従来あまり注目されてこなかったようだ。
方春陽は、葛応雷の項の按語にいう。
「近世に撰述された『中国医学史』はみな、劉完素・張元素の学の南伝のキーパーソンを羅知悌とするが、実際の授受のルートは、決して一つではない。葛応雷もまた重要人物であり、上記の墓誌銘表や伝紀をみれば、十分に問題を説明できよう。・・・ただ羅知悌は朱震亨に伝え、大いに発揚して天下に名を知られたが、葛応雷は子孫に伝えて、わずかに代々その医業を守り、呉中にその名をとどめただけであった。しかしその学術思想の淵源はもとより同じである。惜しむらくは『医学会同』は亡佚しており、詳しくその内容を考察することがまだできていない。」
もちろん石田秀実は劉張の学の南伝の話をしているわけではなく、元から明清にかけて行われた、「それぞれの医家の長所を採って折衷的に統合使用して」いく時代風潮の例の一つとして、葛応雷『医学会同』を挙げているのだが。
結論:
正徳『姑蘇志』、李濂『医史』などに引く葛応雷のエピソードは、『医籍考』や『中国分省医籍考』などに引かれているが、その出典は、『金華黄先生文集』に収める葛応雷の墓誌銘であった。